今朝7:30に芦屋を出発、晴天の中予定通り淡路島~徳島~池田と走り、四国中央市のJR川之江駅から300mほどの所にある、ちゃんとした讃岐うどん屋さんでおいしく頂きました。
その後、紙バンド製造立会いも無事終了し明日の準備をして解散、四国中央市から高速で1時間半の実家がある愛媛県伊予郡砥部町に先ほど到着です。とは言うものの、実家は奈良県生駒市にもあるので・・・・・(こちらの)実家には誰もいません、勝手に家に入り、風呂と洗濯を済ますと何もすることはありません。明日の紙バンド製造立会い二日目に備えて早めに寝ます。
こうやって何度も四国に通い、沢山の方々の協力で、ゼロから兎屋紙バンドを作ることが出来た事に感謝しながら次のステップをあれこれ考えています。兎屋紙バンドは四国中央市(旧:伊予三島市~旧:川之江市 古くは伊予国宇摩郡地域)で作っていますが、もともとは水引からヒントを得ています。今でも四国中央市は紙の町であると共に、水引生産日本一を誇っています。因みに信州飯田も水引産地として有名ですが、原紙のほとんどは四国中央市の製品を使用しています。

今日は自転車で(今回自転車を持参しました)四国中央市、川之江地区の旧市街を見てきました。川之江地区(旧:川之江市)は城下町で城とJR川之江駅周辺は古い木造の家が多く残っています。この町は早くから産業・・・特に近代製紙業が興ったのと、その後の経済変化に微妙にずれて?というのは製紙会社の立地条件や消費地との距離、もちろん紙の流行(需要)などが大正~戦前~戦後~高度成長期~バブル崩壊~今と言った時代の流れに微妙に遅れながら来ているので、街中の一軒家が薬品代理店を営んでいたり、通りの裏がすぐ小さな製紙会社があったりという感じで時代と時間が混濁している印象を得ます。
兎屋紙バンドを加工して頂いてる工場の前には江戸時代の道標(へんろ道)が有り、工場の方はお守りだとおっしゃっていました。・・・・・ということは工場の前の道は古くからの街道という事ですね。
街中に小さな製紙会社や加工会社、また旧街道が通って居るといえば、私が9年間過ごした、静岡県富士宮市やお隣の富士市も同じ風景を持っています。富士宮市には東海道と中山道を結ぶ脇街道の大月道があり、富士市には五街道の一つの東海道があります。町の風景が似てる所もあるので一瞬ここは四国中央市?と思ったりします。まあ富士地区のほうがスケールがちょっと大きいようです。大消費地の東京に近いので機械が大型になり易く、建物も大きくなっていく傾向に有るようですが、そういう大型化が今の時代にあっているかというとそうでは無い所が微妙ですよね。
結局四国中央市の製紙環境が微妙なのと富士地区の製紙環境が微妙なのはどちらも同じ事が原因のようです。という事はなんでも世の中の事は微妙にずれていかねばならないというか、それが時代の流れなのでしょう。
注)この記事は2006年5月25日(旧)兎屋ブログからの転載です。