暑かった去年の夏に始めて行った平沢峠 その日、私は南側(清里方面)から上がって来たのですが、峠手前の広場で見つけた石碑を読んでおぉ!と思ったのです。それには信州佐久の豪族「平賀源心の胴塚」と言うのがあり、どうやら武田信玄の若い頃に討たれた人の事が書かれていました。そしてその戦の舞台は平沢峠を野辺山方面へ下り、さらに高地を下った千曲川沿いの山に残っている「海ノ口城」だったそうで、その日も千曲川沿いに走り国道299号線に向かったのですが、通り過ぎる小さな看板を見ながらいつか「海ノ口城址」を見たいと思っていたのでした。
信州は山国なのに”海”という字になにやら古めかしさを感じます。そういえばこの辺りには「海ノ口」「海尻」「小海」など”海”を使う地名が多いです。ネットで調べると八ヶ岳噴火後に出来た湖の名残らしいですが、八ヶ岳が噴火した時代っていったいどれぐらい古いのか?とか、噴火の影響で出来た地形に名前が付くぐらいの時間の長さに感じ入るのです。そしていよいよ信州佐久の豪族、平賀源心の登場です。

甲斐の武田信虎と信州佐久の平賀源心。甲斐は一国でまとまっていたけれど、信濃は地形的な要因などの理由から大小豪族が各地に拠っていた時代。戦の分は武田信虎にあったと思います。そして元服した信玄(晴信)に討たれたと言い伝えられている平賀源心ですが、歴史的には伝説の域にあるみたいです。
しかし武田家が佐久攻略を行っていた事は事実ですし、時代は1530年代・・・と言う事は戦国時代だけれど鉄砲はまだ伝わっておらず、古い形の戦がこの辺りで繰り広げられていたのだろうか?と海ノ口城址に向かう急な山道をたどりながら考えていました。

それにしても人がいない・・・・静かです。野鳥がいっぱいいます。で、目につくのが山菜・山菜・山菜・・・・でもこの辺りは村の持ち物なのだそうです(と、看板に書かれていました)だから山菜には一切手をつけず登っていましたが、やっぱり気になるのです、タラの芽が・・・ほらゼンマイもあるし、ウドもある・・・でも採らない、と言うか折角初期戦国時代に触れようと思って来たけれど、山菜にやられましたよ。あぁ煩悩じゃ~目に毒じゃ~・・・・海ノ口城は思わぬ伏兵に手強かったのでした。また行こう!