昨日の続き。
年配の方には出来るだけ歴史的な話を聞かせて貰いたいと常々思っています。以前勤めていた富士宮市のT製紙会社のO会長には「太平洋戦争の時、富士市はどうでしたか?」と質問しましたし。紙代理店時代にもI会長に「朝鮮の春川にあったD製紙の事を聞かせてください」と誘って見たりしました。すると大変だった時代の事をおもしろいエピソードを交えながらお話して下さるのです。

先日、紙屋のご年配の社長と行った信州出張の時もいろいろ聞いて見ました。するとガスボンベの話がはじまりました。
物資不足の時代、東京在住の親戚の方が東京からガスボンベをリヤカーに乗せて運んだ事があったそうです。そして帰りのボンベの中身はお米だったそうです。つまり東京からガス燃料を持って来て、帰りにガスボンベに闇米を入れて、また東京へ帰って行ったという話です。
Q:行き帰りの食料はどうしたんでしょうか?
A:おふくろが大きなおにぎりを竹の皮に包んで持たせていたよ。玄米の握り飯と漬物だった。
Q:リヤカーで東京までだと数日掛かりますがどうやって寝たのかな?
A:野宿よ
Q:箱根峠越えですよね
A:そうだよ登りより下りが危険で、手製のブレーキを作っていたね。
Q:手に入れた米は売るのですか?
A:売るのと自分たちが食べるのと両方だよ
Nさんの親父さんの兄弟の話で、当時Nさんは小学生です。その後Nさんち(N家の本家)に兄弟たちが集まるたびにこの話が出たそうです。東京~富士宮市の微妙な距離も関係している話です。これが四国だったらリヤカーでボンベは無い話です。でも似たような話は終戦直後の日本では方々で見られたのでしょう。
グーグルマップで調べたら、富士宮市から新宿まで国道1号と国道246号を使って徒歩約30時間です。終戦直後の道路事情や栄養状態、リヤカーに満載のガスボンベ等考えると途中で一泊はするでしょう。
昭和20年終戦直後の箱根峠には沢山の人が行き来していたのでしょうね。今まで想像した事のなかった場面が目に浮かびました。
昭和20年・・・・まだまだ知らない話があるに違いありません。今のうちに聞いて 置かなくちゃ。