先のブログ日記 で南豫時事新聞の創刊が明治35年(1902)3月と言う所まで書きましたが、話が脱線したので簡単に記録して置きます。
南豫時事新聞の創刊は明治35年(1902)3月で、昭和16年(1941)12月「愛媛合同新聞」に合併されるまでの39年が単一新聞社として愛媛県南予地区を中心に新聞を発行していた期間と言えます。昭和16年の合併とは、現在の愛媛県紙の「愛媛新聞」の前身「海南新聞:松山」と「南豫時事新聞:宇和島」そして「伊予新報:松山」の3社が政府方針により合併社としてまとまったと言う事です。
当時日本の各産業界は、経済統制という名の元に戦時体制に組み込まれて行き、特に国民世論に影響する新聞社や出版社は言論統制を強力に推し進める為に様々な力が加わったようです。もちろん言論統制ですから、検閲等は日常茶飯事で、中でも新聞社にとってダメージが大きかったのが原紙の支給統制で

まだ自由主義に対して青臭い、しかし良心的であったろう明治時代の創刊意志を掲げた新聞社が、いくら言論で戦う姿勢を表わしても、肝心の「紙」が無ければ手も足もでず、新聞が発行出来なければ仕事にならず、仕事が無ければ社員が失業すると云った事になると言う圧力がこの経済統制合併でした。
さて、昭和16年(1941)と言えば、日本が米英に対して宣戦布告した年で、12月8日(日本時間)は日本海軍機動部隊がハワイのアメリカ太平洋艦隊が基地とするパールハーバーに奇襲攻撃を仕掛けた日でも有ります。
1941年から遡る事約70年前頃、日本は欧米列強による植民地化の恐怖(黒船来航)から近世幕藩体制を退け(いわゆる幕末動乱)天皇を中心とした欧米を真似た中央集権型の政府(しかし、小さくて弱々しい)を作ります。その時期世界地図には欧米列強を中心としたと軍事帝国のいわゆる列強国と列強の餌食とされた植民地国の二つしか無く(例外はわずか)、せっかく植民地化の恐怖から抜け出たと思ったら、次の恐怖が清国からやって来たのを切り抜け(日清戦争)ホッとしたのも束の間、強国ロシアと戦をする羽目になり、朝鮮半島から中国東北部にかけて沢山の血を流したのです。

この両戦役でかろうじて勝った?とされた日本には違った価値観が芽生え、その後1945年8月の終戦までほぼ10年毎に戦争をする国となり、1945年までの最後の10年はずっと戦争の時代だったのです。立憲君主の時代ながらイギリスやアメリカのような自由な国を作ろうとした、明治期の気分はいつの間にか消え去り、イギリスやアメリカのような列強の仲間入りをしたという驕りと次の恐怖から朝鮮半島を植民地化し、大陸へ出て行こうとする意識が素晴らしいかのような雰囲気が作り出されて行くのが明治末期から大正~昭和にかけての時代の気分だったようです。
そんな時代の昭和12年4月7日の新聞をこれから少しづつ読んで行こうと思っています。やっと前奏が終わったようです。