社会人になって2年目の24歳から本格的にオートバイに乗り始めました。本当は18才で中型免許(400ccまで)を取ったのですが、私にとって1番初めのオートバイの先生(同級生のE君で、私より小さくてかわいらしい男子でしたが、オートバイの腕は光ってました。当時一番仲が良かった)が私が試験にパスし免許が発行されるまでの1週間にオートバイ事故で帰らぬ人となってしまいました。お互い大学生で、私は東京、彼は九州の学校に入り、久しぶりに会った夏休みは毎日Eの部屋で暮らしていました。そう言えば6~7月頃私の住んでいた学生寮に九州のEから電話が有り(呼び出し電話でした)興奮した声で「限定解除したぞ、Z買うぞ!」と・・・・。
矢沢永吉さんのコンサートが武道館で始めて行われたのもその夏(1977)で、チケットを2枚取ってEと行く予定でした。EのカワサキZⅡ750(紫全塗黒の集合管の族車ですね)に2人乗りで下道を走って行こうと企んでいましたが、彼の母親にバレて「お金出してあげるから新幹線で行きなさい!」と言われましたね。愛媛県松山市から東京の武道館まで2人乗りで行こうとマジで思っていたんです。その時の気分は、ちょっと大変だけどZで行けば楽しいかな?位の認識でしたし、お金の事や泊まる場所(たぶん野宿だったでしょう)そして帰る事なんか全然考えていませんでしたね。・・・・結局そのチケットはパァーになり、骨といっしょに焼きました。
Eを最後に見たのは松山市南郊の砥部町の国道33号線(今は旧道になっています)。彼がZⅡで私が50ccの小さなオートバイ。昼過ぎにもう帰ろうという事になったのですが、Eは「もうひとっ走りしてくる」と言ってまた峠道の方へ向って行きました。その時何故か私はオートバイを停めて振り返りEを見送っていて、その時の情景は今でも覚えています。なぜそのような事をしたのか?虫が知らせたのでしょうか・・・
その後数日、なぜかEと連絡が取れず、電話しても、家に行っても家族みんな留守。そして数日後の夕方彼の家に行くと、玄関の戸に黒い紙が貼ってあって、(あぁやっぱり・・・)と不思議と自然に思い、家から出て来たお兄さんに「とうとう行っちゃったよ」見たいな事を言われると、心の中で(もうわかっています)という気が起きました。そして「友達に連絡します」と言っていつもの50ccで自宅へ向かうのですが、なぜか涙は出ません。
普通友達が死んだら泣くんじゃないのかな?泣かないのって薄情だなと思いながら1km程走ると、今度は自然に涙がどんどん出て来て、その後はワァーワァー泣きながら50ccで走って自宅へ戻り、勝手口から家の中へ向って「Eが死んだ~」その後はお通夜、葬式、初七日と毎日泣き通しで、男のくせにみっともないと思ったけど、泣けてしまって、人間って簡単に死ぬなぁ・・・と思ったものでした。1週間経つのは早いけど、たった1週間時間を戻すのが不可能な事も知りました。

彼の母親から「もうオートバイに乗らないで」って言われ、私もブルーになってしまい、大学時代の4年はバイトに明け暮れる日々でした。車の免許は何とか学生時代のうちに取り、24万円で中古のブルバード510SSSの1800ccクーペをシャコタンにして乗ってました。オートバイに乗りたい、日本一周をしたい、と思ってましたがバイトで稼いだ金は車の維持費や服代に消えて行き、それはそれで楽しく学生時代を送りましたが、Eの事を忘れた事はありませんでした。そしてオートバイには必ず乗ろうと心に決めていたので、社会人になって2年目からオートバイ生活を始め、今日に至っています。北海道や東北など特に北を多く走ったのは、私が南国育ちだったせいもあると思っています。
夏が来ると北海道の景色が思い浮かびますが、なぜ北海道が好きになったのか逆にたどっていくと18歳の夏にたどり着きます。学生時代は彼の事をよく思い出してましたが、社会人になりオートバイに乗る様になってからは、あまり彼の夢も見なくなりました。こころのどこかに彼の分も走ろうと思っていた時期もありました。人より遅めのオートバイデビューだったので、人より沢山走ろうと思っていた事もあります。今年で49歳になりますが、まだ現役で走ってられ幸せを感じています。
この日記は2005年の夏に同じような事を書いていた物に加筆訂正して、もう一度日記にして見ました。自分の子供や、子供の友達などがスクーターで飛ばしているのを見ると、(事故に合わないでくれ!)と思う一方で、当時の自分に戻ると、親の小言なんて聞く耳を持つ事は無く、私が子供に「事故は恐いぞ、スピード出すなよ」と言ってもほぼ聞いていないと思います。学生時代の先輩に言われた事を思い出します。「佐野は今からオートバイに乗るのか?俺は高校時代でオートバイは卒業したから、生き残ったぞ」
※友達を亡くしたくなかったら、あなたが安全運転をしてください。