第668号 四國運輸新聞
昭和54年7月30日(月)(4)の文化のページ欄のB5コピーから「昭和20年8月遠い汽笛・・・・清家桂」宇和島機関区機関士兼運転士


昭和20年8月6日。広島の空は、晴れ渡り朝のすがすがしい空気はしばしやすらぎを与えてくれる。その時突然目をおおう閃光そして大音響と共に、空に湧き上る入道雲が天高く昇っていく。一瞬にして、広島は火の海阿鼻きょうかんの町と化してしまった。
その広島の町を、11時過ぎ、汽笛一声C59機関車の逆向きで、客車4両に負傷者を満載した列車が静かに東に向かって離れていく。その機関士は、佐野忠典氏(当区機関士)当時19歳の若き岩国機関区機関士だった。


広島第二機関区出区線で待機中、被爆、顔と手にやけどを負い、テンダーの軸箱の油をぬって、猛火につつまれている広島駅の消火に機関車の放水で活やくされた。昨年誰が、いつ広島から西条まで32キロの間を多数の負傷者を運んだのだろうか。この事が、広島鉄道学園「語りつぐ学園史」の編さん中、問題となった。当時管理部列車指令で、この列車の進路誘導された松尾大七氏の談話を引用させていただく。
「6日の昼すぎじゃったと思います。6日は間違いないんで、ただ昼をすぎとったか、どうかははっきりしませんが、広島駅から客車4両に負傷者を満載して、西条まで走りました。機関士は岩国機関区所属の人でしたが、この人は西条の方には運転したことがなかったし、信号機はもちろん駄目になっとりましたので、わしは進路誘導ということで、ずっと炭水車の上に乗っとりました。ええ、機関車は逆向きでした。お陰でうまい具合に運転できて、よかったですね。運んだ負傷者は、管理部の人達が多かったように思います。管理部長の磯崎さんも、この時運んだ人ですが重傷でした。機関車を運転してくれた機関士のことが、折りにふれ、思い出され、色々と氏名の確認に努力したが、とうとうできずじまいになってしまい。今日もなお、心の奥底にひそかな悔痕を残している。」
さて佐野機関士は、一度も運転した事のない線路を、松尾氏の誘導で、逆向のため、炭粉が油をぬった顔につきささり痛みをこらえ、線路を歩く負傷者を助け、馴れない線路をやっとの思いで西条の駅に着いたそうである。西条陸軍療養所で、この列車に乗っていられた方、死亡38名。重症167名、行方不明4名の多きだったそうである。


この機関士佐野氏のことを広島鉄道学園に知らせましたところ、大いに驚かれ、早速、昨年8月17日(昭和53年4月5日の間違い)病の床にふせていた佐野氏を、学園の総務課長、庶務係長が来松され(注:松山市の吉田病院での事)病床を見舞い、当時の模様を、録音し帰広されました。
時は流れ、そのころ、75年間は草木も生えず、人も住めないと云われた広島市が前にも倍して栄え、緑に映える木々と、近代建築になる町並みと、流れ豊かな太田川は、30数年の才月をへても、なほ生きつづけている広島市。
汽笛も遠い思い出となった。当時の若い人達も、初老を迎え、いま、若い世代に、バトンタッチする年令えと近づいている。もくもくと奉仕した国鉄職員の尊い姿を思い出して・・・・・・・。
8月6日 広島市原爆 救援列車 の記録