大森彦七:オオモリヒコシチの名前を聞いたのは昭和58年。昭和57年春に社会人になっていた私が東京から帰省した時です。実家が松山市から南隣の伊予郡砥部町に引っ越した頃、歴史に興味のある両親から聞かされました。?「オオモリヒコ・・・・誰?」伊予郡砥部町辺りに関係の武将らしいですが、聞いた事は有りませんでした。しかしその時の話で、「楠木正成:クスノキマサシゲを斬った(自刃させた)武将で、戦時中は相当肩身が狭かったらしいよ」と言われ、成程と納得した記憶が有ります。

楠木正成の名前を年配の方なら存じている人は多いと思いますし、「その名前を思い浮かべて同時に何が思い出されますか?」と質問したら、ほとんどの方が戦前の修身の時間を思い出すのでは?と想像します。楠木正成は南北朝時代一方の勢力である北朝の後醍醐天皇に従い、足利尊氏の推す南朝と最後まで戦って戦死した武将で、千早城での戦上手や、湊川の合戦での悲劇的な最後が忠臣として喧伝され、私も子供の頃に読んだ本の挿絵を思い出します。挿絵の題材は湊川合戦での楠木親子の別れの場面で、何故か♪青葉茂れる桜井の~~♪の曲も、歌い出しは知っています。その楠木正成が戦前教育では天皇に忠節を貫いた忠臣として取り上げられた為、広く国民の知る武将となっていますが、湊川の戦いで楠木正成を討ち取ったとされる大森彦七が反動として逆徒として賊の汚名を被り、歴史上どのような扱いを受けたのかも想像出来ました。

楠木正成は皇居に銅像まで建てられる武人、最近の子供達は知らないかもしれませんが私の子供時代までは、まだ日本人の常識として、忠臣楠木正成は人気の武将でした。しかし 歴史好きな私でさえ知らなかった大森彦七の名前は、輝ける楠木正成の対比、あるいは陰影として強く耳に残った名前でした。当然、楠木正成も、大森彦七も生きた時代では、夫々の立ち位置で精一杯戦った武人で有る事は間違い有りませんが、後年いろいろの思惑の渦に巻き込まれ、歴史が作られる過程で忠臣と賊徒とに区別された訳で、当の本人達は当惑しているに違いないと思っています。そんな事を思い出した一日でした。