日帰り出張で、四国中央市へ行って参りました。で、数日前入学式を終えた長男に「お前も行くか?」と聞いた所「当然」という事で代休で休みの長男を連れて向かいました。丁度お客さんの会社の目の前が海で、何か釣れるかなと思ったのと、これから忙しい高校生活が始まる前に一度変わった場所で釣りをさせてやりたいと思ったのです。家から四国中央市まで車で2時間半、四国山脈を穿って19個のトンネルを抜けるとすぐに四国中央市が見えて来ます。山と海の間に東西に横長く広がる四国中央市は、他の紙産地と同様、米以外の産物を作り現金収入を得たいと言う江戸期の地域管理者たる大名の意向で、和紙を作り始めたのが最初だと言われています。日本各地にある和紙の産地としてはまあまあ新しい方で、高知の伊野市も和紙の産地ですが、こちらは江戸時代以前戦国期に和紙が作られ始めたと聞いています。
山が海近くまで迫り平地が少ない地形は日本の各地で見られ、その為江戸期の米本位制の経済の中で取り残された各藩が産業振興の一環で行った政策は、結果米本位制からの脱却を目指したものでした。

魚図鑑をしきりに調べていました。
その執念が政策の結実となり、それぞれの地方の特色となって今の日本を形作っています。ここ四国中央市は日本有数の紙の産地と言いましたがその道のりは険しく、降水量の少ない瀬戸内気候での紙抄きとは常に水の獲得という苦しみと同義語でした。
また、社会の発展と共にある製紙業は、日本社会が戦後の復興と共に大きくならざるを得ず、工場の立地条件をも合わせて発展せねばならない状況が有ったのです。社会の変化についていけないという事は、経済活動に於いては衰退の二文字でもありました。
日本各地の和紙産地のうちで、紙産業が中規模程度の発展を遂げた所はいくつか有りますが、昨今の業界再編製の波で、殆どが大手の参加に組み入れられています。その中で愛媛県四国中央市と静岡県富士市、富士宮市は大手系列の戦いに巻き込まれながら、或いは紙業界の変化の波にもまれながらも独特な地位を保っています。
さて、長男を港へ放し飼いにして、私は一日中四国中央市を動き回っていました。神奈川県時代は3~4ヶ月に1回の四国中央市出張でしたが、同じ四国に移住した事で頻繁に来る事が出来るので、仕事がはかどっています。それに昔お世話になった人たちの応援を受ける事も出来るので助かってもいます。
夕方、港へ長男を迎えに行くと、(もう来たのか!)と言う様な顔で迎えてくれました。釣果はそれほどでも有りませんでしたが、普段見ないような魚が複数釣れた事に気を良くしていました。それに堤防の脇に大きなコブダイが悠々と泳いで居るのも教えてくれました。うららかな春の一日、もう一生来ないだろう四国中央市川之江港での釣りは、彼にとってどうだったのでしょうか?
注)この記事は2007年4月10日(旧)兎屋ブログからの転載です