12歳で生まれ故郷の愛媛県宇和島市から離れていった私は、46歳の去年7月、まさか故郷宇和島市から2時間程の距離に有る高知県幡多郡に引っ越して来るなんて夢にも思っていませんでした。

宇和島市~松山市~東京~大阪~東京~千葉~静岡~神奈川と引っ越しを重ね、その間にこまごまとした引越しも入れると、住所不定も含め16回以上も転々としていました。そうやって故郷を遠く離れていると、子供時分に過ごした宇和島市の事が幾度も思い出されていました。
母方のお墓が有ったり、実家が松山市に有ったりしたのでたまには宇和島へ行っていましたが、駅前の知り合いの本屋さんに顔を出し、長く住んでいた朝日町の家を見に行ったりですぐに帰って居たので、今回はちょっとゆっくり町を歩こうと思い立ち、家内と次男を連れて出かけました。
今日は海も見たかったので海沿いの国道56号線で向かいました。途中景色の良い所にあった喫茶店でモーニングを食べ、豊後水道の景観をたっぷり楽しみました。高知県幡多郡黒潮町から愛媛県宇和島市まではこのルートなら2時間の距離です。

宇和島市に入って、先ず小学校時代の友人に18年ぶりに会いました。幼馴染と言うものは良いもので暫く会って居なくともすぐに話しが出来るのはすばらしいと実感しました。その後変わり果てた市内をウロウロし、卒業した小学校に向かいました。数年前に来た時はまだ古い校舎の一部と古い体育館(講堂と言ってました)が有りましたが、今日は無くなっていて新しい体育館が出来ていました。
小学校の前の須賀川を隔てた所に有る住吉山は友達とよく遊びに行きチャンバラや基地作りをした山です。当時(昭和44~46年頃)私達の遊びは、チャンバラと基地作りで、そのフィールドは住吉山、藤江の石山、浄念寺の裏山と決まっていました。学校で思い出に浸ったついでに更に奥に有る赤松遊園地へ足を延ばして見ました。正式には覗岩遊園地と言いますが、遊具らしいものはほとんどなく昭和30年情緒たっぷりのと言うより、忘れられた過去の遊園地といった風情でそれは有りました。

意気地なしの私は海の町で育ったにも関わらず、小学校の4年生まで泳げませんでした。(因みに自転車に乗れたのは5年生の時・・・・だってコケルと痛そうだし)なので海やプールに行っても浅い所でバシャバシャするだけしか出来ないかわいそうな男子でした。その私を海に誘ってくれたのが今でも時々夢に見るH君で、泳ぎを覚えたのがこの遊園地だったのです。(H君とは12才の時に別れたきりで手がかりが無かったのですが、今日合った友人が電話番号を知っていて教えてくれました。大阪に住んでいるようです。近いうちに連絡して見ようと思っています)
海は比重が軽いので楽に泳げるし、なにより水中眼鏡をつけて海に入ると暖かな宇和島の海の生き物を沢山見る事が出来、時間を忘れて遊んでいました。そんな赤松遊園地は、驚くなかれ昭和45~46年当時と同じように存在していました。奇跡としか言えないでしょう!!!
軽い気持ちで向かった宇和島市でしたが、思ったより内容が濃かったので、今日は「その1」とします。それに椿事も有ったし・・・・。
注)この記事は2007年1月14日(旧)兎屋ブログからの転載です。