バルトの楽園(ガクエン) 2007

昨日は近所の葬式があり、家内と朝7:30からお手伝いに行ってまいりました。男は葬列の飾り物の製作と野辺送りの行列参加、女は料理の準備という事になっています。去年12月にも近所で葬式が有ったので今回はだいぶ慣れていました。田舎暮らしにとって地域の方達との交流は大切なものです。特に葬式は予定無く入って来ますが、皆快くお手伝いに駆けつけています。これからも同じような風景がこの里でも繰り返されるのでしょう。

て葬式を終え、精進落としの皿鉢料理と日本酒で真っ赤になって家に帰ったのが13:00過ぎ、借りていたDVDでも見ようと家族でコタツに入りました。作品は2つ。家内の借りた「バルトの楽園」と私の借りた「股旅」です。


「バルトの楽園」はマツケンサンバでおなじみの松平健主演の映画で、第一次世界大戦の折、日本軍と戦った(当時中国のチンタオ=青島 にはドイツの要塞が有った)ドイツ軍捕虜は徳島県坂東郡の施設に収容されました。そこの収容所所長の松江と捕虜達との関わりあいを描いた映画です。マツケンサンバ♪のイメージが強かったので一体どんな映画なのか不安でしたがとても良かったですよ。当時日本は世界一等国(一等国という名前自体が日本のコンプレックスを象徴しています。幕末急に開国させられ弱国として国際デビューした日本は、早く列強と対等な位置につき、幕府が結んだ列国との不平等な条約を解消しようと必死で有りました。)の仲間入りをしようと捕虜に寛容だったと思っていたので徳島の収容所の話しも国策に沿ったものだと思っていました。愛媛県出身の私は愛媛県松山市にも明治時代、日露戦争時にロシア軍将兵の収容所が有り、捕虜達を大切に扱いながら地元民との交流も有ったと知っていたので徳島も同じだと思っていました。しかし第一次大戦時の大正期にはその風は消えていたようです。軍人は傲慢になり、武士道精神のある一面だけを持って軍人たらんとなって行った様です。この傾向は昭和の軍人にも引き継がれ、昭和20年8月15日を迎えたのです。そういった風潮の中、松江という所長は捕虜を対等に扱かったのですが、その背景として会津藩を紹介していました。

綱淵 謙錠著「戊辰落日」お奨めです。

松江氏は会津藩士の子孫です。会津藩は幕末戊辰戦争時、佐幕派の中心になっていました。既に幕府の長たる「将軍」は戊辰戦争劈頭の鳥羽伏見戦が不利と見るや当時出張していた大阪城から深夜逃亡、船で大阪湾から江戸へ舞い戻ったという事です。会津藩主はなにも判らないうちに船に乗せられそのまま江戸へ連れ帰られ心中察するに余りあるものです。当の「将軍」は会津藩などを見捨て、恭順と称して戦争から逃げていました。ここに会津藩の悲劇が始まったのです。その後守るべき幕府は無くなり、佐幕派の中心から賊軍の頭領と蔑称されつつも最期まで苦戦し降服に至った会津藩に下った判決は、全藩配流の処置でした。豊かな会津盆地から一転して追いやられた先は青森県下北半島。この地へ流された会津藩の人達は陸奥斗南藩3万石(実質7千石)で生きていかなくては成らなくなったのです。(因みに会津藩は23万石で始まり、幕末には実質収量40万石を超えていたそうです)その悲劇から、反政府的な活動家或いは政府や軍に入り出世を遂げた方も多く居たようです。映画でも会津に対する偏見等が描かれていました。

あまり期待せずに見始めた映画でしたが、味わい深く見ることが出来ました。しかし映画製作に於いて一つだけ残念な事が有りました。それは映画中、捕虜の造った物や絵の展示即売会の場面で地域の人達との交流があったのですが、その時セットに使われていた万国旗に時代考証のでたらめな物が有ったのです。それはカナダ国旗です。

今カナダで使われているメープル葉の国旗は1965年に制定されたもので私が小学校低学年の時でした・国旗が替わったという事で赤いメープルのバッチを貰った事が有ったので良く覚えていました。それなのに・・・・あぁ残念。あぁもったいない。映画製作者さんはもっと勉強しないといけませんね。万国旗は世界情勢が刻々変わってるので扱いが難しいものです。って万国旗も日本のコンプレックスの現れとも言えますが・・。

注)この記事は2007年1月8日(旧)兎屋ブログからの転載です。