野辺送り 2006

昨日、高知市方面に出たのでその話を書こうと思っていたのですが、隣の班でお葬式が有り、家内とお手伝いをさせて頂きました。という事で、今日の日記はお葬式に臨んで思った事を書いてみます。

夕方、有線放送でお葬式のお知らせが有りましたが、家族全員家を離れていた為、聞き逃していました。しかし、大家のM本さんがいろいろ段取り等お教え下さいました。我が国で多い仏式の葬式だけ見ても、日本全国、各地都道府県、市町村、宗派でそれこそいろんな形があります。同じ集落でも字(アザ)が違えば、微妙に違うのは当たり前で、兎屋一家の住んでいる部落もそうです。また、更に奥まった所の部落(割合大きな集落です)だと、かなり違ってるような話もお聞きしました。

昔からその地域に住んでいれば、多少の違いは有れ、割と普通に参加できるのが葬式ですが、兎屋一家のように、方々動いているとそうは行きません。ここが他の県から地方に移ってきた人達と、地方在住の方々とに一番意識の差が出る場面だと思っています。これから田舎暮らしをしたいと思われる方は特に、気の使われる所だと思いますし、事実そうです。

飾り団子の串刺しの山。一番上の団子は鳥の形です。

私が初めて葬式を意識したのは14歳、当時住んでいた愛媛県松山市でした。近所のお母さん達が自宅にドンドン入り込んで、勝手に台所でなにやら作り始めたのにビックリしていました。その時に食べた黒豆ご飯(赤飯ではなく黒飯でした)が美味しかったのが記憶にあります。葬式が終わった後、葬式は近所の人達が助け合ってするものだという事を親から初めて聞いたのでした。で、聞いた後の感想は、「葬式って厄介だなぁ・・・・」(14歳)でした。

その後暫く葬式に関わる事は無く、社会人になってからも得意先関係の葬式に、会社代表で出席するぐらいでした。しかも社会人の時はほとんど東京だったので、その葬式は会場で行うものばかりでした。なので、特に特色があるものではなく、コレが現代の葬式なんだと思っていました。

孟宗竹と棕櫚と藁で作った龍が2匹、魂を天に届けて欲しいと言う願いがこもってるのでしょうか?

静岡県富士宮市で住んでいた時に、部落の同じ班で葬式があった時は、心配した裏のT木のおじさんが、朝(平日でした)ウチに飛び込んで来て、有無を言わさず腕を掴みながら「佐野さん!これは行かないとダメですよ!」と言いながら、葬式の出た家まで引っ張ってくださいました。今思えば感謝の気持ちで一杯ですが、T木さんからすれば東京から引っ越してきた家族という事で、心配してくださったのだと思っています。その時も家内と私とお手伝いに周り、その葬式で初めて、野辺送りを体験しました。因みに富士宮市では葬式の料理にはナマスが必ず出ます。しかもピーナッツであえてたりして、酢の物好きの私は一度食べて気に入り、我が家の定番料理になっています。

さて、ここ高知県幡多郡のお葬式のお手伝いです。内心は好奇心で一杯でした。きっと知らない事が沢山有るに違いない。幡多方言のおもしろさを毎日楽しんでいる私としては、古い形の物がどのような形で残ってるのか興味のある所です。

竹籠には紙吹雪です。野辺送りの時に竹竿の上に掲げ揺らして雪を演出します。これは静岡でもやってました。

日本の一般的な地方のお葬式(自宅で行う場合)のお手伝いは、近所の方が裏方に入り、男衆は飾りや道具の準備、女衆は食事の準備と、相場が決まっています。朝7:00集合で、家内は気合を入れてその家の台所へ向かい、私は早速山に入って飾りの木や棕櫚の皮の採集です。他の男衆は、各種材料に必要な孟宗竹の切り出しから一日が始まりました。

一番下っ端の私は、ベテランの方の邪魔にならないよう心がけながらも、不思議と思った事はドンドン聞いていましたが、キリが無くなり途中で質問をやめました。まぁ日を改めて順に聞いていこうと考えたのです。特に気になったのは、孟宗竹で作った2匹の龍です。どういった由来が有るのかは知りませんし、いろいろ考えましたが見当が付きませんでした。

葬式は正午の出棺で私達の仕事は終わりました。お家から霊柩車までは、野辺送りです。お経と線香とカネの音に送られ、空には6本の旗がはためいています。私も旗を手について歩きました。日頃家内には、ワシの葬式は特に質素にやってくれよ」と言っていますが、こういう野辺送りも良かったりします。無くなった方も喜んでいるような気がしました。

注)この記事は2006年12月16日(旧)兎屋ブログからの転載です。

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