四万十川の川原にて 2006

日曜日、スクーター修理で四万十市に出て来ました。ちょうどお昼時です。ブレーキワイヤー交換とシートの張替え作業を待つ間の1時間半、市内の商店街を見物しアーケードの東側にある一条神社の入口で地元の教育委員会が神社の由来説明を書いた看板を見て、ハッとしました。神社は一条家4代をお祭りしています。

一条家とは応仁の乱の時に(応仁の乱が戦国時代の始まりです)乱を避けて自領地の有る土佐国幡多庄に下向した関白、一条教房が、経営の宜しきを得、人心を掌握し次第に戦国大名化して行った一族の事です。初代は一条教房で、先に4代を祭っていると書きましたが、説明に依ると、教房を含め3代と京都に残っていた教房の父親を祭っているという事です。3代目の次男(教房の)房家から30年後、土佐中央の戦国大名、長宗我部元親に滅ぼされたという事です。どちらにしても1500年代戦国期の話で、一条家は1575年に滅んでいます。鉄砲伝来が1543年で、1600年が関が原の合戦ですから、大体の時代背景はわかると思います。

で、なぜハッとしたかという事ですが、この神社の建立が文久2年という事です。歴史は西暦で学んで来た私達ですが、幕末史に興味が有る方なら、この文久2年(1862年)という年がどんな時代だったかピンと来るはずです。まさに維新動乱の真っ只中、土佐では土佐藩参政、吉田東洋が土佐勤王党の志士、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に暗殺され、土佐が勤皇派一色に染まった時代です。

そしてエネルギーはそのまま京都に向かい、坂本竜馬や武市半平太、人斬りの異名を持つ岡田以蔵らが活躍したのですが、土佐の高知から京都に向かって流れるエネルギー軸の反対方向の、この幡多郡になぜ一条家の名誉復活事業とも言える一条神社が建立されたのか?歴史はこういう田舎の気分についてはあまり詳らかではありませんが、そういう気分というか当時の流行というか?幕府の力が衰え、時代が変わっていく息吹がどういう風に地方で芽生えていったが、とても興味をそそられます。

続きが有ります。この神社は昭和19年(1944年)に再建されたということです。昭和19年の雰囲気は時代が近い事もあってなんとなくわかります。太平洋戦争が末期的状況になり、国内に於いても一層厳しい言論統制が行われていた暗い時代です。

今風に考えれば戦争で忙しいのに、なぜわざわざ一条神社の再建をするのか?普通に考えれば国家神道隆盛の流れで地方の神主さんや神社が時代の中央近くに位置していた事はわかります。そして兵庫県の楠公神社と同じ感覚で、わが町の勤皇の表を現すために、天皇に近い一流のお公家さんを大切にと言う事で、事業を行っただろうと推察できますが、どうにもこんがらがって訳がわからないのです。

一条家が勤皇派(維新の勤皇派と昭和の勤皇派がどこまで志が同じかどうかは別として)に人気のものとすれば、江戸期のほとんどの間、神社建立の話が無いということは、当然徳川家が反勤皇に位置する事を理解する事はたやすい事です。明治維新の動乱は勤皇派と佐幕派の戦いでしたからね。

妙なのは土佐国の江戸期は家康より土佐一国を拝領した尾張武士の山内家が治めていたということです。山内家はその前の土佐の英雄、長宗我部家が関が原で滅んだ後に、入国し長宗我部家の生き残り家臣団を懐柔、または弾圧しながら治めていましたが、それらの旧長宗我部武士団を武士とは扱わず、格下の郷士として身分差別をして来ました。土佐勤皇党のほとんどはこの郷士階級から出てるので、勤皇の志が篤いのはわかりますが、一条家はこの長宗我部家に滅ぼされています。まぁレキシ言うのは理屈というより勢いなのかな?

注)この記事は2006年9月3日(旧)兎屋ブログからの転載です。