古紙、再生紙を取り巻く環境がいかに複雑で厄介な状況に有ったか、そして今も有るかを皆さんに知っていただきたく書いておりますので、暫くお付き合い下さい。
再生紙を抄く事が使命と成り宿命となった日本の製紙メーカーは、持ち前の勤勉さで作業に向かいました。先ず 古紙がどこまで使用に耐える原料かという事です。サンプルの古紙だけを実験機で再生紙にするという事は紙の性質上そんなに難しいことでは有りませんが、回収古紙のようにいろんな種類や状態の古紙、中には古紙以外のものが混入している原料を大量に、連続的に、均一に、安全に処理していく事は難しく、しかも紙の製品として要求される条件が高ければ高いほどそのハードルは高くなっていきます。そして常に要求とは過酷なものです。
次に 古紙回収についても古紙処理と同じように。大量に、連続的に、均一な品質の古紙が求められます。古紙は一時的に大量に発生してもあまり意味が有りません、再生紙をブランドとしてメーカーが連続的に販売する場合、ロットで品質が大きく変わるのはとてもマズイ事です。すそ物三品なら大量に発生もするし、連続的で、まあまあ品質も均一ですが、その他の古紙の場合はそういう訳には行きません。
最近では、地方公共団体(県、市町村)で使用する紙は、その入札の段階でひとつの条件が課せられています。(古紙100% で白色度70)というものです。このような条件は地方公共団体が地球環境にも気を配っている事の表れと言えますが、このような取り組みを一番最初に行ったのは神奈川県でした。ブランドは「やまゆり」(神奈川県花)という紙で、開発には当時(1980年代初め)、本州製紙(現:王子製紙)が関わっていました。本州製紙は洋紙系のメーカーというよりは、白板紙、ダンボール原紙主流のメーカーで、紙屋の営業マンだった私は、当初、不思議に思っていました。その後本州製紙は、再生印刷用紙を次々に発表して行き、その印刷用紙の品質は高いものでした。この動きが他の用紙系メーカーを刺激したことは言うまでもありません。

洋紙系(印刷用紙)ではない本州製紙が、他の洋紙メーカーを前に古紙入りの用紙分野で大きく販路を広げることが出来たのは何故か、当時、一部の業界の人達の中には(特に本州製紙のライバル的な立場の会社など)「黒い紙の原料しか扱ってないメーカーが白い紙(洋紙系)用の古紙原料を大量に集められるはずは無い、一部は古紙かも知れないが、ほとんどパルプで抄いてるのではないのか」といったような事をささやいていました。私も当時の上司からそのように聞かされていました。でも その度に思っていたことは(そうかもしれないが、時代が動いてることは事実だな)と思っていました。
本州製紙は洋紙系では有りませんでしたが、段ボール原紙や白板紙で古紙の扱いには慣れていました。また洋紙系のメーカーではなかったので独自の古紙仕入のラインを持っていたので、ある程度のロットの古紙を新規で集める事が出来たのです。私はコレが本州製紙が成功したひとつの理由だと思っています。
何故このような話をしたかというと、古紙を使用する事のハードルの一つがここに有るからです。古紙を原料として古紙入りの紙を抄くには、技術と仕入がしっかりしていないとダメだという事が言えるのです。もちろん営業力や企画力も当然有っての話ですが。
古紙入の紙は昔から洋紙メーカーは作っていましたが、新しいカテゴリーといえる(再生紙?)のきっかけは、皮肉にも非洋紙系メーカーから発信されたと言えるでしょう。